陳暁霞:孔廟と儒学、東西文明への影響は?
ソース:中国孔子网作者: 2021-10-15 09:36
孔子は中国の偉大な思想家と教育家であり、儒家学説の教祖である。後世に孔聖人、至聖先師、万世師表と尊敬されている。国内外に及ぶ孔子廟は孔子を祀る礼制的な建築であり、伝承された儒家思想は所在国に深い影響を与えた。
中国の孔子廟とその伝承された儒家思想
世界初の孔子廟が孔子の故郷曲阜で誕生した。『史記·孔子世家』によると、「故所居堂弟子内、後世因廟藏孔子衣冠琴車書。(故と居りし所の堂と弟子内は、後世因って廟とし、孔子の衣・冠・琴・車・書を藏める)」と記されている。孔子が亡くなった後,旧居は孔子を祭祀する廟宇になった。漢高祖十二年(紀元前195)十月、劉邦はわざわざ孔子廟に訪れて孔子を祀り、孔子を祭祀する初の帝王になった。漢の武帝が百家を取締り、儒家を唯一推奨し、儒家思想は国家の指導思想となり、孔子も国立の学校内に祭われた。その後、各王朝は絶えず孔子廟を建て、清の時代になると、中国には国子監、府学、州学、県学、庁学、郷学などの各級学校の孔子廟1740校以上あり、孔子廟は最も広く分布する国家の祭典廟となった。
孔子廟の建築形態は「礼制」「中庸」「大同」「天人合一」などの儒家思想を現れている。孔子は社会が一定の等級秩序によってバランスが保たれ、社会の調和と秩序は礼儀制度で人々の行為を制約する必要があると考えている。孔子廟の建築形態の中で、主体建築と付属建築が映りながら隠し合い、廟の前両側の下馬碑、祭祀者の厳格な等次順位、大量の礼器祭器の陳列、大成殿建築の異なる規格などは、「礼制」の思想を体現している。徳配天地坊と道冠古今坊の対称、礼門と義路の対称などは、「中は天下の正道、庸は天下の定理」、中して偏らずの中庸の道と「天下大同」の思想を体現している。儒家は「天人合一」を唱え、人・建築・自然環境の調和統一を追求する。孔子廟は伝統的な庭の組み合わせと環境引き立ての手法を適切に運用し、ここでは哲理を悟り、知恵を啓発することができ、孔廟の中に身を置かせて感慨を催し、「聖人」の思想境界を悟ることができる。
中国孔子廟の大部分は城内に建てられており、一般的に都市の東南角、東部或いは東北角に位置し、しかも大多数の文廟は南門内の東側或いは東門内の北側に位置している。配置は前廟後学式、左廟右学式、右廟左学式と寺学分離式の4種類がある。一般的には、大成門の前、大成殿の殿庭、崇聖祠の三進庭院となっている。孔子を奉る文廟は国家の祭典に入れられ、主な祭祀人物は全国一致している。
アジア国家の孔子廟とその伝承された儒家思想
漢代から孔子廟は国門を出て、主に朝鮮半島とベトナムに渡った。朝鮮半島は小林獣王二年(372年)六月に「太学を立ち、子弟を教える」ことを打ち出し、中国に倣って廟学合一の最高学府太学を設立し、1398年漢城に孔廟(成均館)を設立し、新羅聖徳王十六年(717年)に孔子と弟子の像を太学に置いた。このように孔子思想は朝鮮半島に伝わり、次第に封建社会の正統な思想となった。統計によると、朝鮮半島の歴史上には362個の礼制性孔子廟がある。朝鮮孔子廟の少数は城内に建てられ、多くは城外の山の斜面に建てられている。
ベトナム学校孔子廟は一般的に城内に建てられ、城外に建てられたものもある。ベトナムの『大越史記全書』巻3によると、李朝神武二年(1070年)国都に「文廟を建て、孔子、周公及び四配の像を作り、七十二賢像を描き、祭祀した」とあり、独立後初の孔子廟を建てた。1076年、李朝の皇帝は河内に国子監と文廟を建て、孔子を祭った。孔子廟が伝わってきた後、すぐにベトナム各地に普及した。統計によると、ベトナムの歴史上に孔子廟は160カ所以上ある。
隋唐の時代に至って、孔子廟は日本に伝わった。前漢と後漢時代、儒家の経典『論語』が日本に伝わり、深い影響があった。日本では大宝元年(701年)から孔子を祀り、それを国家祭典に入れ、唐の礼制に倣って天皇の名義で祭祀を行った。大学頭、大学助、博士で三献を担当する。江戸時代に至り、徳川幕府は儒学を聖教とし、学校内に孔子廟を広く設置した。日本歴史の中には100以上の孔子廟があったと統計されている。支配者の強力な提唱の下、日本は誰もが儒学を学ぶ社会風潮を形成した。日本の『令集解』巻15によると、「学令」は「凡大学、国学は毎年春秋二仲の月上丁に先聖孔宣父を祭祀すること」と規定している。日本の藩校孔子廟は城内に建てられるものもあるが、城外に建てられるほうが多い。
15世紀初めから、鄭和何度かの西洋渡りと中国の海禁解除に伴い、南方の民衆は東南アジアに行って生計を立て、孔子廟などの建築はより多くの東南アジア諸国に伝わり始め、孔子の思想も所在国に伝わり、現地の文明発展に積極的な影響を与えた。1899年、インドネシアの華人は華文学校で孔子を祀った。インドネシアの孔教会は全国各地に百以上の分会を設置し、孔子を祀る建物100基以上を建てた。1819年にマレーシアのペナンにマラッカ三保廟書院が設立され、その後、各大都市のほとんどに孔教会組織があり、孔聖堂などの孔子を祭るの建物が設置されている。シンガポールは1914年に実得力孔教会を設立し、孔夫子の教育道徳文化を宣伝と振興し、万国の太平に賛成し、各種の学問と善挙を支援した。
欧米諸国の孔子廟とその伝わった儒家思想
16世紀に孔子廟は欧米諸国に伝わった。イタリアの宣教師マテオ・リッチ(1552-1610)は、最初に中国思想と儒家文化をヨーロッパに紹介した。百科事典派のリーダーホルバッハ(1723-1789)は孔子の徳で国を治める政治主張を推奨し、重農学派の指導者ケナイ(1694-1774)は儒家の農業重視の主張を推奨し、啓蒙思想家ボルタイ(1694-1778)は中国の政治、哲学、道徳、科学が完全無欠なものとし、「私たちは中国人と同じようにできないのは不幸である」とし、フランスも儒家の道で国を治めるべきと主張した。19世紀イギリスの宣教師ジェームズ・レッグは長年中国にいて、二十数年をかけて『四書』『周易』『尚書』『詩経』『礼記』『左伝』などを英語に翻訳した。彼は「孔子は古代の著作事績の保存者であり、中国の黄金時代のモットーの注釈者、解釈者である…彼は最高の身分で人類の最も美しい理想を代表している」と述べた。イギリスはケント公爵によってヨーロッパ初の孔子廟が建てられた。
前世紀90年代初め、ドイツはケルン近くの中国城に孔子の銅像を立てた。19世紀末期にドイツの宣教師ファーベルは儒家思想の中にいくつかの倫理観念が「イエスの倫理と共通している」と考え、仁・義・礼・智・信などの倫理観念をキリストの教義と組み合わせて説教した。19世紀から、孔子廟はアメリカに伝わった。1883年に中国に来たアメリカの宣教師李佳白は儒家思想を民を教化する本だと推賞し、「儒教を教えるのは永遠不変の道であり、古今においても東西においても適合できる」とした。1965年にカリフォルニア州の州都サクラメントに孔廟が建てられ、更に20世紀70年代以来、孔子像は相次いでニューヨーク、ロサンゼルス、ホノルルなどに立てられた。1982年にサンフランシスコで初めて孔子生誕記念活動が開始し、その後毎年孔子の生誕に盛大な記念大典を行い、多くの華人とアメリカの政府要人が参加した。
ドイツの宣教師衛礼賢(1873-1930)は孔子思想と西洋思想と比べ、孔子思想が多くの優位性があると考えた。彼は孔教大学の入学講経会で行った「孔教は大同に至ることができる」と題する講演の中で「凡そいわゆる経済学説、社会学説は、すべて孔教に及ばない。西国は愛国しか語らず、国の下に家がなく、国の上に天下が欠けていて、孔教にしかそれを補うことができない。」「今後、孔教の中和の道にしか大同に至ることができない。環境が如何に変化しても、その教義が日々輝いた。」と述べた。アメリカの宣教師衛三畏は『中国総論』の中で、「孔子の著作がギリシャやローマ哲人の訓言と比べ、その全体的な趣旨は良好である。それが置かれている社会とその優れた実用的な性質から見れば、西洋の哲人を超えている」と書いている。
フランスが制定した『人権と公民権宣言』も、自由の道徳限界として孔子の格言を引用した。「自由はすべての人が他人の権利を損なわないことをする権利であり、その原則は自然であり、その規則は正義であり、その保障は法律であり、その道徳的限界は以下の格言の中にある。己の欲せざる所は人に施すなかれ。」
楊煥英の『孔子思想の国外での伝播と影響』によると、1945年、アメリカのステティニアス国務長官はラジオで「今後の世界の平和を処理するには前回を鑑とすべきであり、その唯一の方法は、人類の道徳を発揚し、仁人の道徳精神を発揚すること。そして、道徳は必ず中国孔子の道徳を目標とすべきである」と述べた。歴史上多くの国家が儒家思想の影響を受けた。そして現代の多くの国も儒家の文明精神を自身の国家発展に溶け込ませている。孔子廟は儒学伝播の重要な担体として、東アジア、東南アジアのいくつかの国家文明の発展と西洋思想家に積極的かつ深遠な影響を与えた。
儒学は中国伝統文化の重要な構成部分であり、世界文化の宝物でもある。1988年、多くのノーベル賞受賞者がフランスのパリで集会し、「人類が21世紀に生きていくためには、二千五百年を振り返って、孔子のところに知恵を探さなければならない」と指摘する学者がいた。孔子が子孫に残した知恵は、現在の人類社会が直面している各種の問題を解決するのに役立つ。孔子の思想は中国に属すだけでなく、全人類にも属する。
編集:张晓芮
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